「加持」は双方向!

鳴り護摩 加持祈祷

拝んでもらったら、後は何もしなくても護ってもらえるんですか?との某青年の問い。

そもそも仏教とは、修行で自身を鍛えて磨いていく教え。そういう教えの核となる「仏」が、一時手を合わせれば後は何もせんでも、好き勝手グータラでもエエで、と言う訳などないのは常識でしょうよ、と思うのですが・・

祈祷と言うと「お願いして助けてもらう」の「もらう」発想だけの大人も多分ですから、人の事ばかりも言われない。

ま、この問いにはお大師さんが明快な回答をしてくださっているので、それをマンマお話(^^;

弘法大師

祈りを「祈祷」と申しますが、密教では祈祷より「加持」という言い方を多用します、コレがキーワード。

梵語のadhisthanaの訳ですが、弘法大師はこのように解説しています。

加持とは、如来の大悲衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく」

以下、もう少し分かりやすく。

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加持と言うのは、仏の大慈悲と、我ら衆生の信心の受け止め力の、双方向で成り立つものです。

サンサンと煌めく太陽の姿は、澄んだ水面にはクッキリ映し出されますね。

日の影

それと同様に、煌めく仏の光形は、澄みきった我らの心の水面には、ありありと映し出されるのです。それを「加」と言います。

そしてまた、我らが努めて心の水面を澄ませて、仏の光形をありありと我がことに映しとるそれを「持」というのです。

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イメージしてもらったら、ご理解は容易でしょう。

則ち、仏の光明を受け取るには、自身の「心水」の状態がどうであるか、コレが肝心

自分ばかり都合よくなればいい、という我欲で「濁ってゴミが浮いている」そんな心の池水に、円明なる仏日は、欠けなく映り得るでしょうか?

憎しみや怒りで「波立って鎮まらない」そんな心の池水に、仏日の姿は、形を成して映り得るでしょうか?

ドブ川

因果や向上を考えもせず感情の赴くままの「浄化のないヘドロ状態」そんな心の池水に、仏日の形は、全うに映り得るでしょうか?

だから仏教は「懴悔」を第一に言うのです。「信心」を入門の筆頭に挙げるのです。

すなわち、祈祷とは「仏と貴方を感応して成り立つ」もの。一方的に頼んどきゃイイ、のではありません。これを忘れては、ご利益も半減でしょう。

物事は因果で成り立っています。私ら坊さんの仕事はそこに絡む状況を整え、見えざる「縁」を強く動かすことに過ぎません。メインは「貴方が、仏と感応し得るかどうか」貴方と仏の向き合いに尽きるのです。頼みながら向き合う気が無い、そんな有り様じゃ、間を取り持つ私らばかり必死だろうと、仏さんは「知らんがな」になりますわ。

祈りを成就せるには自身の有り様であり心水である「因」を、浄めていく努力がいる。心のドブさらいをしていく必要がある。自身の基礎固めをしていく必要がある。

だから大師は先に「衆生」の心水との記述を、「持」では「行者の」心水替えています

仏が照らすのは「全て」ですが、それを受け取るには「努力が要る」=傍観者じゃなく当事者である「行者」にならなきゃダメ、なのです・・お気づきでしょう、祈願も「修行」の一端であるのです。

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ですが「祈るは一時、結果だけはガッツリ期待」そんな方は少なくありませんね・・

「手順をすっ飛ばして結果だけ得ようとする」のは、AI化の加速する時代の趨勢もあるかもですが・・

ただ、時代がどうあろうと、仏に祈るということは「加持感応すること」に変わりはありません

貴方の心身は、仏を映し出すにふさわしい、努めて澄ませている水面となっているか?

仏の音声を響き返せる、澄んだ器となっているか?

言うは易く行うは難しですが( ̄▽ ̄;) 成就を祈るのでしたら明鏡止水、必ず心に留め置きたい祈りの要です。

しかし乍ら、ただただ感情の赴くままに妄言妄動を拡散し、それを真に受ける人たちが急激に増えている印象の昨今。昨年の寺報に【感情論バカが溢れている】と記事に書きましたが、見聞きする世情は更に暴走気味か。

感情とは、まさしく私らの心の水面を波立たせて止まない筆頭要因。感情論に人心が流され世が動く時代に、仏の加持などどれ程の人が受け取れるのか?それは意識して努める貴方でしかないのかも・・真の意味で末法の到来かもね(((;゚Д゚))

※R7/7/9の寺ブログの再編集版です

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