※前編からの続き
祈りの場は「その人の本性」が剥き出しになる場だ、とは常々申しておりますが、それはこのような仏鬼神衆がその「願主」の心底を測り査定する場となるゆえ、なのかもしれませんね。易経の「鬼神害盈而福謙」鬼神は驕り高ぶる者に害を、謙遜な者に福を与える、との記述も、どこか通じるようにも思えます。
そういうことを言うと「仏様なのにバチを当てるなんてあり得ない!」などという人がいるのも定番ですが笑、分かっちゃいない。童子ら眷属を「仏鬼神衆」と記しましたでしょう?仏の従者でありますが、彼らは決して仏菩薩だけじゃない。例えば制多伽童子は、よく言えばヤンチャ、悪く言えば乱暴者だという。それは仏門の表示である袈裟を身に付けずに天衣を肩にまとうだけ、という姿にも。
軍というものは上意下達が絶対で、司令官の命令なくして動くことは許されないのは鉄則。これは現在の自衛隊が大災害発生に出動準備が整っていようと、如何に善事だろうと都道府県知事の要請がないうちは絶対に動けない、のはご存じでしょう。
※ついでに、それならば実動部隊である眷属を直に祈った方が早いじゃんと思う人もいるかもですが、こういう面があるので、眷属だけを祈っても彼らは動いてくれないのです。
ところが、その中にはその規律に従わない者も必ずいるのは世の定番。これら眷属衆はいうなれば天部≒人間に近い存在。大将=ここでは不動明王=仏=人間の有り様になど一喜一憂しない=親分、は黙っていても、オレは許さんぞ!という鬼神が暴発し、危害を為すこともある。※これ故に拙僧は「軍隊」と言わずに、義理や情も大きい極道的?「軍団」と言うワケ。
これが、いわゆる仏罰の一面でありましょう。
制多伽童子にわざわざそういう危険な性をも内示している。そればかりか、この制多伽童子(と矜羯羅童子)が不動童子の両筆頭であることの深意を、我らはよくよく思い致すべきでしょう。
御礼参りが大切、というのもこの面からだと理解は容易ですね。お不動さん=親分は依頼人の失礼など別に気にかけずとも、人間の感覚に近い童子ら鬼神達が【義理を欠くなど、俺たちの親分を小馬鹿にしやがったな!】と反発して、いくら大将お不動さんの命令だろうと職責を放棄とか次は動かないとか、甚だしくは叶えた願いをひっくり返す(実際に何件か見ています)、そういうこともあります。
神仏という超世間的存在を頼もうとも、我々は人間として生きていくのが絶対の足場。仏さまを祈るのも基本、他人に頼む姿勢と同じことですよ、といつもお話していますが、仏神に縁じる前提として「人として当然の弁えを問う」存在であるのかもしれません。もっともお不動さんが指令を下す以前に、お不動さんがソッポ向くような有り体では、もはや祈り以前の問題ですけれども。
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同時に眷属とは、不動明王という「仏」と「法」を奉じて、その「教え」に従い、その教えを「護り実現し広めん」とする者達・・そうです、不動尊に身を委ねてその教えに従い実現に努める「願主」ならば、その願主は眷属に等しいのです!それは八大童子たちにとっては「同士」も同然、という道理に!

仏法僧を奉じて教えを実現し護持し広めんとする者ならば、自身も煩悩具足のまま仏の軍団の一員となりうるという、願いを叶えるを超えた「己の昇華への道」の提示も、眷属という存在には秘められていると思うのです。仏の働きを「頂くだけ」から「与え」にも向かうこと。そう転昇なるならば、欲なる願いも仏の道に適うというもの。心しておかれると、童子衆の親しみも援けも近くなるってものです。
ともあれ、不動軍団が私の為に動いてくれているのだ、と想い至るならば、眷属衆も働き甲斐があるに違いありません。個人的アプローチには応じずとも、存在を知り心を向けるなら縁は出来る、贔屓目もあるかもネ。そう、他人に頼むのと同じ心と礼儀は祈りの最低限の基本です。あなたの祈りに向かう姿勢は、お不動さんのみならず数多の童子鬼神衆に見られ、測られているのです。意識されたら、祈りもご利益もきっと変わる。
そういう意味でも今回、万障繰り合わせて参拝拝観された方々は、まことに勝縁でございました。一層の冥護へと繋げられたく。
※追記 画像を探そうと「八大童子」で検索すると、「四波羅蜜菩薩」について間違った解説が為されているのを見ました(※ここでは触れませんが、八大童子は大日の不動変身に伴う四仏四波羅蜜の変身とか八識の変身など諸説あり、それに伴う解説も玉石混交のよう)。門外漢がデタラメを発信出来ますし、ソレをAIが収集してさも正解と回答、AIの嘘情報は皆さんも経験おありでしょうけれども由々しき事態。AIやネットは鵜吞みにせず、そのソースを確認する癖を持たないといけませんね・・
※遍照院5月ご縁日法話の再構築

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