大師宝号という感応

弘法大師御影 法話

なぜ南無大師遍照金剛と唱えるのか。

真言宗には祖師だから追慕もある。が、弘法大師に限って、他宗の門徒さんや外国人まで「南無大師遍照金剛」とお唱えしている。

そこまでに他宗の祖師と何が違うか。それは、

大師は今に活きる仏として活動されている、ということだ。お不動さんや地蔵さんや観音さんの如くに。

しかもそれは後世の信徒が勝手に崇めて持ち上げたのではない。大師自らが肉体改造を行なって普賢行願に住せんと誓われたことにある。

大師は弘法に取られる、の言葉がその誓いが今日までリアルである証だが、拙僧もそのリアルに触れさせてもらっている。

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例えば、昨年どうにもならぬ地獄を見た時、大師法を行じた。その際、とあるビジョンを見せられた。田舎の骨山の何のとりえもない拙僧如きを大師はちゃんと見てくださっている、と涙が止まらなかった。

たんに頭のオカシイ私の妄想かもしれないが笑、その裏付けとなる事実に気づき以降、そのビジョンは私の支えになっている。21日は何もなければ大師法を行じている。今日もヒントとなるものを見せられた。

真言行者は苦しい時には大師を行じるがいい、必ず援けてもらえる。

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ありがたや 高野の山の岩陰に 大師は今もおわしますなる

とは、天台座主・慈鎮(慈円)僧正の御製の歌だ。

宗派など関係なく、仏教を奉じる/大師を祈る者に、大師は手を差し伸べて力を与えてくださる

他の仏を祈る時にも「南無大師遍照金剛」と唱うれば、その本尊の働きに大師は助太刀してくれる。されば、同行二人は日常にある。

 ※chimyoxのthreads投稿(26/7/21)の転載

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