仏教のお経は、釈尊滅後に弟子らが「我はこう聞いた」というものを集成し承認し構築されたもので(故にみな如是我聞で始まります)、釈尊が記述したものは無いのですが、釈尊の言葉に一番近いと考えられている原始経典があります。それはスッタニパータと言います。
今回は釈尊誕生日という機会ですので、リアルなお釈迦さまの言葉を紹介させてください。
スッタニパータの中の、アーラヴァカの経、というお話です。
アーラヴァカ夜又という精霊(神)が、お釈迦さまに問いかけました。
「沙門よ、我が問いに答えなければ 私はお前の心をかき乱すか、心臓を破るか、両足を掴んでガンジス川の向こうに投げるであろう」
釈尊応えるに
「友よ、私は神々悪魔(中略)人間を含む世界で、我が心を乱し心臓を破りガンジスの向こうに投げる者を見ない。友よ、望む所を尋ねよ」

夜叉は尋ねます。
「この世で人間の最も優れた富はなんですか、安らぎをもたらすものは、美味なものは、どのように生きる命がすぐれているのですか」
釈尊「この世では信仰が最も優れた富である、教法が安らぎをもたらす、美味なものは真実である、最勝の生き方は智慧によって生きることだ」
以下、続けて夜叉は問い、釈尊はそれ答えます。煩雑になるので以下、釈尊の返事の一部分のみ。
「人は信仰によって激流(生死など煩悩)を渡り、怠りなきによって海を渡る(彼岸へ行く)。精進によって苦を超え、智慧によって清らかとなる」

「涅槃を得る教法を信じ、それを聞こうと願い、怠らず明察すれば智慧を得る」
「ふさわしい事をして、重い荷を持って奮起する者は財物を得る」
「真実によって栄誉を獲得し、施与は友情を結ぶ」
そしてこう締めくくります。
「信仰があって、在家生活をする者に、真実、教法、堅固、施与の4つの特性があれば、その者こそ来世を憂うることがない」
以前にもお話してますが「仏教は哲学みたいなもので、信仰だの不思議だの神話めいたものは後世に作られたもの、釈迦の本当の教えにそんなものはない」という、自称仏教学者みたいな者の論がもてはやされた時期がありました。信仰=宗教性を否定することが賢い在り様なのだ、と言わんばかりに。
しかし、リアル釈迦に極めて近い原始仏典には「精霊」も登場し、釈迦自身が「信仰こそ、人間の最も優れた富である」と述べておられます。
理屈理論で世の、生き様の、全てが解決できると思う事が、如何に傲慢ということか。
仏教では、その個人毎に適し応じた道(中道)を用いる事が全てであるから、一神教のような絶対普遍の教説はありません。
「三法印」に立脚して真実へいざなうものならば、如何なる教説も仏説となる。これが、八万四千の法門と、成仏に至った者達が誓願として諸仏諸天となり顕現する、大乗の展開へとなったわけです。そこには、己も菩薩として仏として精霊として教えを展開し、志同じく仏説を奉じる者を救わんとする数多の誓願力も加味されている。

生まれては死ぬという定めに不如意の苦しみを負わされている生命ですが、真っ当なる信仰には「その苦しみから度脱する教え」「教えを奉じて力を与える様々な衆力」がもたらされる。そしてそれは来世をも救う。信仰こそ、苦海を生きる人間には「最も優れたる富」というのはそういうことではないか、と思うのです。
宗教という名のもとに、実質は金集め集団とか教祖への奴隷化でしかない邪教が蔓延っているせいで、信仰そのものが怪しい危ないとみなされる風潮になってしまっているのは、嘆かわしく悲しく思います。
しかしながら、釈尊直々に「信仰は最も優れたる富」と言うのです。自助だけではどうにもならない、そして生存そのものに関わる苦しみには、涅槃を下敷きにその教えに付き従い力を援ける衆を伴う「信仰」は、まさに理屈だけで生きる人には分からない「力と救い」を得るのです。死なずとも既に現世にその利益を体験している皆様には蛇足でございますね。

そしてこの経の最後、この教えより優れたものがあるならば他のバラモンに問うがよい、と釈尊が言うと、アーラヴァカ夜叉は「どうしてそんなことがありましょうか(中略) 目覚めた方は私の為に来られた、今日わたしはどこに施与すれば大きな功徳があるかを知っています(中略) 等覚者と素晴らしい教法を礼拝しながら」と述べています。
原始経典に見える釈尊の言動は、私が知る範囲でも甘さはホント見えません。その中に「信仰」を「最も優れた富」と申されている。本日お参りされている皆様には、そういう信仰を持たれていることを、自負できる生き様として自信を持たれ、更にご自身も磨いていただければ幸いです。
ちなみに、このアーラヴァカ夜叉とは、アーラヴィー族という種族の奉じる神/精霊であったようですが、これはアータヴァカ=太元帥明王へと展開します。そう、太元帥明王は釈迦の教導によって、夜叉から明王へ成道した仏さまであります。
すなわち、阿弥陀仏や観音などの尊格が生まれる遥か以前、原始仏典というかリアル釈迦に、仏教の原初に由緒を持つ仏であります。日本仏教ではあまり馴染みのない尊格でありますが、実には皆さんご存じの大乗仏教の仏さま以上に、仏教の原点に縁じている仏さま。
当山にご縁があって太元堂にお参りされている皆様には、そういう点も含んでご自身の信仰と勝縁を噛みしめ、喜悦ご信仰を深めて頂きたく。
法会後に天狗の里へ買い物に行きますと、道路を挟んだ山を駆け上がる鹿の姿が!しかも5~6頭⁉野生のそんな姿を見る機会など無いのでビックリしましたが、そういえば、釈尊の初転法輪の地はサールナート、日本語訳では鹿野苑・・鹿が多く住む場所だったのだとか。釈迦灌仏やった後にこういう光景に出会うのもまた有り難しかな、でした(^^;
※2024年4月14日の寺サイト記事の引っ越し

